①
久しぶりにここに投稿した。
数えてみたら、自分が文章を書く場所として所持している場所が5つもあった。
・このブログ (テーマ:人生)
・もう一つのブログ (テーマ:仕事)
・mixiからリンク貼ってるやつ (テーマ:生活)
・仕事で半分しかたなしにやってるやつ (テーマ:なし)
・twitter (テーマ:なし)
2人くらいにしか存在を教えたことがないこのブログが一番PVが高くて、複雑だ。
まぁあんだけ更新してしかも実名とか曝したら当然か…
始めた当初よりもSEO的な知識がついたので、いろいろとコントロールしている途中。
②
ウェブ屋やってるくせに新しいウェブサービスにはかなり懐疑的だったが、
「これではイカン」と思い直しいろいろと登録した。
(自分が知ってるウェブ著名人はプライベートワークとしてそれらのサービスに間違いなく名前が載っている。「とりあえずやってみる」精神がこの世界では大事なのかもしれない。減るもんじゃないし。)
で、そろそろネット露出を拡大していこうとの謀もあいまって、
全アカウントのハンネとプロフ写真を統一。
まずは自分のブランディングから始めてみる。
③
ジャズ系の後輩がやたらブログをやっているようだ。
みんなgoogleの使っているのが笑える。俺も含めて。
ちなみに上のバーはCSSいじったら削除できるよーん。
④
自分はポジティブな人間だと思っていたら、実際は
「ポジティブの上にネガティブが座っている人間」だった。
まぁだいたいうまくいかんかもしれんけど、それでも別にええわ。死にゃせんし。
という精神。
これは一番自分の恥を稼ぐタイプで、ちょっとどうにかしたい。
強い人間になりたい。
2009/10/05
近辺整理
2009/08/28
2009/08/19
照れ屋さんのブルース
顔を見ればそいつの状況がわかる、というのが俺の中での「かっちょいい男」である。
「体調がすぐれない」と相手に言わせる前に、
顔を見て「お前大丈夫か?」と言える男のほうがどう考えてもかっちょいい。
自分もそうなりたいとは思っているが、
ハテ思い返すと、そもそも自分は相手の顔を見て話をしない。
2009/08/11
low bitting
防犯とはその名の通りに解釈すれば、「犯」を防ぐものである。
つまり、「犯」がなければ「防犯」という概念は無かったはずである。
盗人が一人もいない世の中には鍵という概念はないだろう。
何が言いたいかというと、「攻め」と「守り」という関係は、
まず「攻め」るものがおり、次いで「守」るものが生まれるという順序であり、
その逆はないんじゃないかということである。
ドMの男と付き合ううちに、知らず知らずに女がSに目覚めた、
みたいな事例はとりあえず置いておく。
ここで「契約」というものを考える。
世の中には俺の予想に及ばないようないろんな契約があるのだろうが、
受発注という関係で言えば日本ではほぼ間違いなく弱者にあたる受注側(外国は知らない)が
「契約」という時、それは突如として「守り」としての性質が浮き出てくる。
人をさんざん動かしといてなんだかんだでお金がもらえない
という状況が困るので、その安全弁として機能させる意図でそれは語られる。
これを冒頭で言った「攻め」と「守り」の関係に照らしてみると、
「攻め」るものの存在が見えてくる。
つまり、モラルのない発注者が発生したという歴史が推測される。
モラルがないというか、商魂たくましいというか。
受発注の関係というのは、俺はたぶん一生悩み続けるのだと思う。
2009/08/06
2009/07/20
珍しく目覚めのよいレゲエ
今日は休日だというのに珍しく午前中に起きたので
部屋の模様替えをし(まったく見ないテレビをどかして、めっちゃ部屋広くなった)、
2回分の洗濯をし、
まだ昼過ぎなので会社に行くのがもったいなかったのでウッベの録音テストを4時間くらいした。
(BP-100の位置を変えては録音する…というもの。テープやらスポンジやらと100均で買って切ったり貼ったり…)
結局同じ場所でも圧着度で全然音が変わるという変数の多さにギブアップした。
港区は5時になるとなんだかチャイムらしいものが鳴るのだが、
それが耳に入ったとたん、外に出ないといけないような気がして、追われるように自転車に乗った。
とりあえず渋谷に向かおうと思って、明治通りをひたすら駆け抜けていると、
虹が出ていた。
日本人でも外人でも、子供でも大人でも虹は奇麗だ。
音楽の趣味って人によって全く違うのに、虹はみんな奇麗だと思うのはなんでだろう。
渋谷についたら、楽器屋に入らないといけないような気がした。
そういえばre-20の録音を試していないので、XLRケーブルでも買うかと思ったが、いまいちピンと来るものがない。
さんざん物色してやめた。
次の機会に買おう。
そういえば何とか楽器でTASCAMのオーディオインターフェースがえらい安かった。
価格.comよりも安かった。入門編として買おうかしら。
今日の戦利品は、
audio-technica ATH-CKS50
古着シャツ
サイコ12巻
あだち充の短編集×2
松本大洋の短編集
今は録音機材を購入しようと思っているのに、変な出費が多いな…
最近購買欲がありすぎて困る。
渋谷から自転車で帰る途中、強烈に寂寥感に襲われる。
だいたい休日の夕方になると毎回こんな感じになる。
昨日まで大切にしていたことが、完全に吹っ飛んでいく感じである。
全部のことが「アホらし」と思える。
東京に来てから余計に強くなった。
東京というところは、なんというか、無関係性を強く意識させる町だなあ。
でもこの感覚は嫌いじゃない。
こんな時、何かに一生懸命になっているやつらを見ると、泣きそうになる。
今、会社。
2009/07/18
2009/07/13
消えましょうあなたから
超久しぶりに大昔に買った宣伝会議とか読んでみた。
そこで展開されまくるキーワードたちに、自分がまったく興味がないことに改めて気付いた。
2年前の自分は少々違和感を感じなからも広告業界というくくりの中で就職活動をしていたわけだが、
こういう本に書いてあることが広告業界の現場か、と思うと代理店を落ちまくったのもうなづける。
からっきし興味がわかないのである。
広告はメディアを使ったコミュニケーションだなんてよく言うが、未だにその意味が腑に落ちない。
街頭広告ガーンと出してそれ見た人がURL叩いてメッセージ投稿してそれがUI的にどう反映するとかで、何百万PVを獲得したとかどうとか。
それってほんまにコミュニケーションか?
少なくとも自分はコンテンツでコミュニケーションをした感覚になったことは、一度もないなあ。
毎日やっとるmixiもそんな感覚はない。
1時間PCの前に座ってるより、友達と煙草吸いながら5分話した方がよっぽどだと思うが。
なんだか身も蓋もない批判になってしまった。
まぁ俺の感覚は結構極端なので、おそらく世の中では↑のようなことをコミュニケーションと言うのでしょう。
というか、代理店だってキャンペーンばかりやっているわけではないのでしょう。
しかしやっぱり広告業界に務めるということは、建築家とか医者とか研究者とか政治家とか作家とか映像とる人とかの前で、胸を張れることなのだろうか。
どう考えてもかっこいい気がしないんだな。これが。
自分はコーポレートサイトのスペシャリストになりたい。
商品がガバガバ売れるサイトでも学生がウハウハ来るようなサイトでもなく、
そこに来ればこの企業のことがわかりますよ、という風に
企業の服となるような、そんな佇まいのサイトを作っていきたい。
と今は思っている。1年後は知らない。
2009/07/10
いわゆる上下関係
先輩から気に入られるという経験が少ない。
それが先生とか教授とかだと、さらに少ない。
(別に同期や後輩からはめっちゃ気に入られるかといえばそうでもないが)
思い当たるフシはいっぱいあるが、一番あてはまると思うのは、
自分が悩まない人間だからだと思う。
正確に言えば悩まないことはないのだが、その解決を誰かに頼まない。
自分で解決しようとする。してきた。
要するに、甘えない。
これがおそらく年上からしたら、とっつきにくい。
子どもは甘えるのが仕事とはよく言うが、たぶん後輩も甘えるのが仕事なのだろう。
怒られたら素直にヘコんで、先輩に相談すればいい。
それが先輩には嬉しかったりするのだろう。
俺にも後輩という人間ができて数か月。
最近そんなことを考える。
2009/07/07
Make You Sweet
何度か書いた通り、バンさんの文章が自分は大好きというか、もう敵いませんという感じだ。
正しいとか間違っているとかを言う気も起らない、不器用だが流暢な文字群は、
逆説的に「腑に落ちる」という最強さを持って目に映る。
基本的に自分と考えていることが似てるからというのもあるかもしれないが…
物書きになりたいわけでもないのに、わざと文章を長くするのはもうやめようかしら。
このままいくと菊池成孔の文章みたいになりそうでいやだ。
うーん。
やっぱり、この場所ではできるだけ精密にものを書くことを決めているので、
だらだらと書いていこう。
平易さを求めるのはまた別の場所で。
2009/06/28
遠くの星を数えて
人の気持ちは移ろいやすく。
GT-R1が我が家に来てからというもの、音楽のこと、というかベースのことばかり考えている。
もう女がどうとかいうのはあっさりとどっか行ってしまった。
ベースの多重録音で世に出せる作品が生み出せないか、ということしかとにかく今は興味がない。
+++
俺には知識欲というものがあんまりない。
したがって知識というものもあんまりない。
エリントンを2年間やって、知ってる曲はだいたい自分がやった曲だけだ。
歴代のダーク経験者の中でも1位2位を争うほど曲を知らないかもしれない。
ベーシストもよく知らない。
山中の方が全然知っていると思う。
興味がないわけではない。
ただ俺の場合、興味が固有名詞じゃなくて、「いかに自分で消化するか」という方向に向かう。
これが他の人よりちょっと顕著なだけだ。たぶん。
今思えば、このブログも
自分の知識の無さを「頭の使いかた」でカバーするための練習場
としての意味合いが強かった。
で、そこから生まれた文章を後になって振り返るに、
なんてスマートさに欠ける文章かとあきれ果てる。
知識を得るとは、他人との共通言語を得るということでもある。
無理やり例を出すと、
「この場面は宇宙を背景にテロップが下から上にうんたらかんたら。壮大な感じであれやこれ」
↓
「この場面はスターウォースのエンディングみたいに行こう」
ということである。
いやあスマートである。
なーんてことを、超久しぶりに田原のブログを見て感じた。
こいつと木本の文章には勝てんわ。
本と映画を見よう。
2009/06/22
アークは最後の夢を見た
なんだか最近、やたら女の事を考えている。
「女の子の事」というよりは「女とはどういうものか」ということを考えている、と言った方が近い。
もちろんそれは、映画や漫画のゲームの登場人物だったり、自分の周りにいる女の子のことを考えた延長線上に浮かび上がる像としてなのだが。
別にその問に対する明快な答えが欲しいから考えているわけではないし、
従ってこの場でそれを提供できるほど俺は何かを見つけ出したわけではもちろんない。
しかしどうしても抜け出せない感覚がある。
女のほうが男よりドラマチックな存在だということだ。
ちなみにドラマチックとはどういうことかと言うと、その対象が属している文脈に大きく影響力を持っている、という意味である。
自分はここ数年間、性としての男という意味では全く自分のことが信用ならんかったわけだが、上のように考えるとその気持ちの出所がわりとはっきり見えてくる。
世の大多数の男は女の事を(一緒にいて落ち着くとか、遊び相手として適任とか、セックスの相手としておーけーとかそういう話じゃなくて)自分の感情を揺さぶる対象として「愛している」と言う。
で、ライフイズビューティフルでロベルト・ベニーニが超絶かっこよかったのは、女にベタ惚れしながら、自身はドラマチックな存在を貫き通したからだ。と思う。
一番かっこいいのは、惚れた本人がドラマチックな存在になることである。
一番カッコ悪いのは、惚れた本人がドラマチックな存在にならないことである。
(蛇足だが、誰にも惚れてない奴がドラマチックな存在にならないことは当然で、
誰にも惚れていない奴がドラマチックな存在になるのはただずるいだけである。)
このエントリーを書いてて気づいたことは、自分は↑の2番目になろうとしているということだ。
うおお超かっこ悪い。
そういう文脈で見れば、さんざんデカい話に広がった末にそのエンディングにてボーイミーツガールという話に収束するという意味で一緒だと考えていた天地創造とクロノクロスは、惚れた本人がドラマチックな存在、つまり主役(キッドは設定上主役ではないが明らかにクロノクロスはキッドの物語である)であるという点でも一致をみる。
しかし両者で決定的に違う点がある。
前者が男が女に会いに行く話であるのに対し、後者は女が男に会いに行く話だったという点である。
この違いが大問題なのである。
両者から同じ感動(=こういう経験したいわぁ)を享受している時点で、俺はドラマ性というある意味責任と呼べるものを女に押し付けている「部分がある」ということになる。
男なら、この物語を全く逆の感動として捉えなければならない。
(男なら、と書いたがもし俺が女だったとしても一緒である。男と女をそのまま入れ替えればよい。)
要するに、これを解決しないといつまでも結婚できないヨという話である。
おしまい
2009/06/21
裸の腕を晒して
よくピアスが安全ピンだったことを突っ込まれた。
単純にかっこいいと思ったのと、あと安いってことで家に落ちていたやつを刺していただけでああった(消毒はもちろんした)。
で、それは俺にとっては全然突っ込み所ではなかった。
最近では、馬車の模様がループしているシャツを会社の各方面から突っ込まれた。
これも単純にかっこいいと思ったのと、あと安いということで(800円くらいだった)古着屋で買ったというだけのことであった。
で、それは俺にとっては全然突っ込み所ではなかった。
うーん。はっぱり社会との乖離を感じる。
服装のセンスが好きだと言ってくれる人が少数いるということは救いだ。
そういえば、浪人時代から大学2年くらいまではアクセサリを結構つけていた。
多分3回生くらいからだんだん減ってきて、ここ2~3年は多分アクセサリなんてひとつもつけていない。
唯一耳に刺さっていた安全ピンはあったが、これも社会人入ってやめた。
アクセサリはつけたほうがやっぱりかっこいいと思うし今でも好きだが、
自分としては「アクセサリをつけるよりも、ノーアクセのほうがかっこいい男」の方がかっこいいと思っているのは事実である。
もしかしたらめんどくさいから外しただけかもしれない。
思い出話。
4回生の時にホーチミンに行った際、クラブで地元のグループと仲良くなって夜まで遊んでいたら、その中で一番かわいい女の子が俺の白い腕輪を指して「くれ」と言う。
もちろんあげたけど「かわりにあんたの腕輪ちょうだいよ」と言ったほうが、なんか映画的なシチュエーションだったかもしれない。
きっとドラマチックな品が一つ増えていたはずだ。
まぁこんなことも、今となってはどうでもいい話である。
以上おしまい
なんだったんだこのエントリーは。
2009/06/19
知
会社に入ると思いのほか時間がなく、バンドも写真も絵も作曲もできないということで、自分が何か生み出すとすればそれは文章だなというのが手っ取り早い答えであった。
(仕事しながらでも目を盗んで書けるというメリットもある)
それでも時間がないので更新頻度は減少の一途をたどるが、何とか書き留めておきたいことが山ほどある。
ところで自分は今、3種類の場所で書きものをしている。
それぞれのテーマは簡単に言うと「人生」「遊び」「テーマ無し」である。
で、現在の生活のほとんどの時間を仕事に充てている今、当然のように言いたいことは仕事に集中する。
当ブログで書くのが果たして適当かみたいな葛藤があって、ずいぶんほったらかしにしていたが、そんな悩みはどうでもよくなったのでここで書いていくことにする。
なので、仕事に関するメモが増えていくはずである。
人前に出すに恥ずかしくないくらいの知見を得るまではここで実験的にメモしていく。
そうするには人生経験値が恐ろしく足りない。
社会人2年目が終わるころには、業界の著名人が書いているような内容を自分なりに発信していたい。
2009/06/06
人殺しの気持ち
一時期「有名な人が書いた本は読んでみよう」と思っていろいろ読んだ(といってもたかが知れてるが)時期があった。
で、一応ブクログもやってるので、評価を自分なりにしてみる。
で、たいてい他の人と逆をいってしまう。
まわりは★★★★とか★★★★★なのに、自分だけ★とか(逆もしかり)。
うーん。これは困ったものだ。
どうも批判的な内容の本は評価を低くつけられやすく、
礼賛的な本は評価を高くつけられやすいような、そんな傾向を感じる。
まったくもってナンセンスである。
特に世の中と自分の温度差を感じたという意味で印象深いのは、
梅津なんとかの「WEB進化論」と原研哉の「デザインのデザイン」だった。
原さんの本は結局自分の過去事例の紹介で実に世界が狭い本に留まっており、
(撮影のためにどこどこに行って晴天の夜明けを待った、とかほんまどうでもええねん)
WEB進化論に至ってはどこがどうすごい本なのか全くわからなかった。
俺がただ単に鈍感なだけなのか?と思うこともあるが、
ただ、この2人と自分が決定的に違うところがある。
原さんはデザインというもの(それは「自分の」という意味が強いが)を信じ切っているし、
梅津なんとかはWEBの未来というものを信じ切っている。
という風に見える。
自分には、それが視野の狭さとして感じてしまう。
俺は信じ切るということができない人間なので、というか信じ切ることは危険だと思っているので、
(信じ切ることが危険ということは信じ切っているが)
そもそものスタンスとしてこの2人とは同じ視点ではものを見れない。
そういう意味で、2ちゃんの管理人が書いた本(「2ちゃんねるはなぜ潰れないのか」)は、久々のヒットだった。
WEBであんだけ儲けてる人間がWEBの未来を信じていないところが、うーんイカス。
最近、マクロな自分の価値観と、ミクロな自分の好みが一致していることに気づくことが多く、
(なんでこれが好き / 嫌いなのか、を考えると、それはメタレベルの価値観に行きつく)
それに気づいた瞬間は非常に気持ちがいい。
こんなことをメモしていくだけで、自分がどういう価値観を大切にしているかが、
随分はっきりしていくはずである。
最近、「Blankey Jet City」「天地創造」「クロノクロス」「初恋」になぜ自分が共感するか、という答えが見つかったが、またいつかメモするかも。
2009/06/03
理由その3
わりと「理屈屋」と言われることが多い。
東京出てからはなんだかロジックという言葉が流行っているみたいで(ちなみにロジックという言葉は大嫌いである)、「あいつはロジック立てて話をする」みたいな言われ方をする。
甚だ心外である。
俺は自分の意見が正しいと思っている場合に、その理由を説明する。
もちろん、他の意見に自分の意見を聞いてもらいたいからだ。
そして、人の意見や行動の裏には、100%の確率で明文化できる「理由」が横たわっている、
とは「理由その1」で書いた。
意識しているかしていないかの差はあるにせよ、人は誰もが論拠を説明しながら会話をしているはずである。
「トモヨちゃんは花が好きだから、今度のデートでは百合をプレゼントしよう」
これは立派なロジックだが、世間ではロジックとは呼ばない(意識しない)だろう。
俺が言ってることは、要するに上記例文みたいなことを言っているだけ(のつもり)なのだが、
この場合は何故かロジックと呼ばれる。
甚だ心外であるとは冒頭で書いたが、
他人が俺のことを指してそう思っているのであれば、事実なのである。
これはもうどうあがいてもしょうがない。
要するに、どこかで「理由」と「理屈」の境があるわけで、
俺はその線を越えてしまってものを喋ってしまっている、ということになる。
ちょっと時間があれば、その境界線を見極めたいと思っている。
ひょっとしたら、その場その場でのものの言い方の差だけなのかもしれないけど。
2009/06/02
沖縄の女 その3
本当にどうでもいい話だが。
自分が25歳になる誕生日の前後5日間、研究室の連中には黙って沖縄にふらっと一人で行ってきた。
沖縄というか石垣島に行ってきた。
今思えばあんだけ修論やばいとか言っといて、なかなかリスキーなことをしたものである。
季節としては珍しい曇天続きの空のせいかもしれないし、
5日間ほとんど一人で過ごしたからかもしれないし、
24歳最後の日に見た夕焼けが泣けるほど奇麗だったからかもしれないし、
人が住む島としては日本最南端にあたる波照間島の薄暗い民宿で25歳の瞬間を迎えたからか、
その夜にジャズバーに行ってみたりしたからか、
そのマスターが奥のスタジオにあるウッドベースを弾かせてくれたからか、
撮りまくった写真がカメラの故障でほとんど使い物にならなかったからか、
数キロあるビーチを延々と歩いたからか、
死ぬほど楽しみにしていたモーターパラグライダーが強風のためキャンセルになったからか、
初めてのスキューバダイビングでアホみたいに船酔いして吐きまくったからか、
まぁよく分からないが、
俺は沖縄と聞くとヒジョ~にセンチメンタルな気分になる。
30歳前後で、もう一回石垣島に行こうかと思っている。ひとりで。
その時、空は前みたいにまた曇っていてほしい。
そして、沖縄と聞くとキョ~レツに思い出す女の子がいる。
以上おしまい。
2009/06/01
沖縄の女 その2
ちょうど24時間前に書いた先ほどの文章も、当初は3エントリくらいの連載になる超大論文になるはずだったのだが、如何せん書き始めに酒が入っていたからかどうしても話の着地点を思い出せない。
要するに、「今のことしか分からないが、まぁそれでええんちゃうか」ということである。
冒頭の過去-現在-未来がうんちゃらという話に被せるなら、
過去は、現在を確認するための材料として手にいれるもので、
現在は、瞬間的に消費してだけど全力で消費するもので、
未来は、可能性として手の内にあるはずがあんまりそれを意識しないもので、
まぁ自分としてはこんな感じに捉えている、ということだ。
「あなたの夢は」と聞かれてハタと答えに詰まってしまう自分にちょっと危機感を感じてはいたが、
(それは例えば面接の場などで、という意味でだが)
それはこの場所でくどくど書いたように、未来に対してかなりのノープランな人間だからある程度しょうがない。
しかし人生哲学と銘打ったように、今を全力で消費するのが大事と言ったのは、もちろん「将来にわたってもそうありたい」という未来的な話題も含んでいる。
だから、それが自動的に自分の夢に当たることになる。
ただし、自分の人生の責任が今のところ自分にしかないからこんなことが言えてるわけで、
自分にも家庭ができたらもっとスマートな生き方が求められるだろう。
30歳とか40歳になっても俺がこんなこと言い続けてたら、多分俺はそのころまだ独身だと思う。
それはやっぱりその時考えればいいことなのだろうか。
よくわからん。
とりあえず、ちょうど自分の名前に今という漢字も入っていることだし、当分はこんな感じで生きていこうと思っている。
ちゃんちゃん
2009/05/31
沖縄の女 その1
以前ここに書いたように、自分はあんまり先のことを考えて行動しない。というかできない。
小説「初恋」に、「人は現在を消費し、未来と過去を手に入れる」みたいなことを書いてあった。
あー、なるほどなと思った。
自分の解釈を含めてもう少し正確に言うと、
未来というものはこれから選択できるものとして手に入れ、
過去というものは変更不可能な軌跡として手に入れ、
現在というものは手に入れた瞬間に現在じゃなくなる。
まぁこんなところだ。言ってることは変わりない。
就職活動のときに、向こう50年とかスパンの人生プランを書け、みたいな課題に何度か出会った。
俺はそれがどうしても無理で、毎度毎度本音とは程遠い適当な嘘を書いてお茶を濁した。
孫正義とかが10代で60歳までのプランを立てたみたいな話が有名になったおかげかそうでないかは知らないが、自分のゴールを先に決めて、それまでにどういうステップを踏めばいいかを考えていく、就職活動中に刷り込まれたのは、そういう考えだった。
で、自分はたまたま、あいにくそういう人間ではなかった。
今できることがあれば、ひたすら夢中にやってみる。
それを続けていれば、またどっかで道が開けるんじゃねぇかな、その時にどの道を選ぶかは、またその時決めればいいだろう。
これが自分の人生哲学である。
だから、自分が好きなことをやるしか今やるしか自分が成長する方法はないと分かっている。
で、就職活動中に一番興味があったWEB業界を選んだ。
なんでWEBが自分にとって興味の対象かと言われれば面接的に言えることはいっぱいあるが、「選んだ理由」として言えることは、選択すべき時に一番興味があったから、としか言いようがない。
そして幸か不幸か、1年たっても一番興味の対象であり続けている。
入社して2か月くらいした時に、なんのコンサルティングの人か知らんが「今後をどう考えていますか」的な面談みたいなことをして、その場で「先のことは考えていませんが、今やれることを頑張っていると何か得られるものは必ずあるでしょうと思っています」というような事を言った。
そのネェちゃんの返事はこうだった。
「素晴らしいですね。今、アメリカでもそういった考え方のほうが主流になってるんですよ」
なんだか世の中というものが適当すぎて、笑えてくる。
その2に続く。
2009/05/26
2009/05/24
君を完全コントロール
俺もバカじゃないので、ディレクターという職種を全うするために自分に必要とされることは何かと考えながら1年を過ごした。
社会人としてもディレクターとしても当たり前にヒヨッコな自分なりに出した結論は、「モチベーションを保つ」ことだった。
ある意味、周囲スタッフのモチベーションさえ保てれば、プロジェクトは何だかうまくいくような気がしている。
結論として言うには「なんだそんなことか」な話だが、この「最上段の解答」を何にするかで人の哲学が現れる。そうそう馬鹿にできない。
ハイおしまい。
で話が済んだら仕事は楽なのだが、自分は「モチベーションを保つ」という行動は直接とることができないので(できる人もいるのだろうが)、より実作業ベースに還元した手法を見出さねばならぬ。
経験則によると
① スケジュールを守る
② 「お願い」する / お礼をする
あたりが大事なファクターなのでないかと思っている。
特に2つめが大切。
これができない大人というのは、もう何だか見ていてつらい。
というか、仕事上うまくいくからという理由でお礼をするとかじゃなくて、、
案件のために頑張ってくれたら自然と「ありがとうございます」と言いたくなるもんだが、
そんなもんではないのだろうか。
2009/05/17
2009/05/16
理由その2
面接という時間は、ある意味究極のコミュニケーションかもしれない。
10分やそこらという時間的制限。
基本的に使えるプレゼンテーション機器は身体のみ。
判断されるのは自分のみである。
結果が「シロかクロ」しかない。
ちょっと考えてみただけでも、「意思疎通」という言葉でくくれる行為の中でも、
かなり飛びぬけて異質なのではないかと思ってしまう。
自分が就職活動というものに身を投じていたとき、
自分で合格点をつけれるような面接というのは経験しなかった。
これから働くということについて、思考は体系化できていなかったし、
アドリブに耐えうるほど、自分は仕事ということについて思考していなかった。
今は自分が最も興味のあることで飯を食っていて、幸か不幸か寝る時間以外のほぼすべてをそれにあてている。
考えたくなくとも考えてしまう。
ようやく自分は仕事ということを考え始めた。
これから、少しづつ「仕事」についてまとめていこうと思う。
ちっちゃい会社のウェブディレクターという仕事を通じて、自分は今まで何を獲得してこれからは何を獲得していくのか、これから何を失っていくのか。
それは、(現時点では全く考えていないが)次にもし面接という機会に自分が触れた時、大きな財産になっているはずである。
2009/05/08
そろそろ人生をなめはじめた男
他人への興味というものがどんどん薄れとる。
というようなことをここ2年くらい感じている。
そんで、つい最近はGWというものを通過して、
「ああ自分は物とか出来事にも興味がなくなっとるな」
としみじみと感じ入った。
自分の誕生日にあまり期待しなくなったのはここ3か4年くらいのことで、それが前兆だったと思えば思えなくもない。
ともかく自分はほんの5日間だけ与えられたGWというもの(実際はそのうち1日は仕事で消えたが)に、全くと言っていいほど期待をしなかった。
じゃあ今年のGWは自分にとっての黒歴史となったかと言われれば、全然そんなことはなかった。
1日家でゴロゴロした日もなかなか良かったし、
晴天の昼間に目黒通りを自転車で通り抜けDuke Ellingtonの未発表ライブ版のレコードを買った日は本当に最高だったし、
流山に行って平川カーで夜の雨をドライブしたことも気持ち良かった。
何のことはない、自分にとってはしっかりとゴールデンなウィークだったのだ。
つまり、何が言いたいか。
自分は先の予測ができない(しようとしない)類の人間であることはとっくに分かっていたが、
その予測しようとする「先」がどんどん短くなっている、これが事実ではないか。
と、今いきなり思いついたわけである。
「明日10年来の友人に会う」という期待感はもうどうでもよく、「今、その友人に会っている」という現在進行形の事実だけを楽しんで享受しようということらしい。
ややこしく書いたが、簡単に言うと「今のことしか頭になくなってきている」ということだ。
別に「人生アドリブ」というのを人生哲学にしようとする気はさらさらないが、
「今をひたすら生きていたら人生勝手におもろくなるだろう」というのが信条ではあるので、
なんだか、その方向にどんどん突き進んでいるようだ。
今日やるべきことをやるだけで精一杯な仕事のしかたを1年間やり続けた結果かもしれない。
まぁ原因はとりあえず今はどうでもいい。
とにかく、読む「先」が短くなってきている、ということで、自分の気の持ちように、全部説明がついてしまう。
ああスッキリした。
「もうこの先には期待するものは何もないが、なんだか人生毎日超楽しい」
という状態である。
ちょっとアンバランスな感じがしないでもない。
2009/04/28
2009/04/17
アイの言霊
何人もの人に「人殺してそう」「クスリやってるでしょ」と何年間と言われ続けた揚句、もうすっかり言われ慣れてしまった感のある俺だが、「人前に立って喋るのが苦手」というひどく人並な悩みに頭を抱えるナイスガイである。
また人前で喋る1時間前から足が震えたりする、超緊張屋さんでもある。
ただし十中八九「緊張してるように見えない」と言われる。
自分という人間の実際の中身と、他人からの印象が大きく異なるのは、大昔からだ。
なんだか損している気がするが、慣れてしまった。
---
そんな俺が籍を置く我が社も、この不況の折に負けじと2010年新卒採用活動を行っているところであり、世の企業の例にもれず採用説明会というものを開いている。
そんなこんなで今日、100人以上の学生(なんで全員スーツやねん)の前で、リクルーター(?)として5分間しゃべってきた。
冒頭で書いた通り喋りというジャンルには圧倒的に自分に向いていないという意識が強い。
そのせいで不安ばかりが先走って足が震えだす割には、喋る内容を特に決めようとしないあたりが、根っからの楽天家としての気質を垣間見せる。
声のでかさだけは、誰にも負けない自信があった。
ロクなことは言えなくても、迫力だけでなんとかごまかそうかという魂胆があったことはここだけの秘密である。
カンペは絶対に用意しないと決めていた。
男は黙って手ぶらである。
これが一番かっこいい。
さすがに1年間仕事ばっかりしてきたことはある。
ぽんぽんと言葉が出てくる。
結構ロクなことを言えてしまった。
最初は長すぎるとビビっていた5分という時間も、楽勝で収まり切らなかった。
結局最後は政治家さながらの大演説のようであった(と言われた)。
いろんな人に「話うまいね~」と言われたのは、ちょっと自信になったぜベイベー。
自分が考えて考えて考えたものは、きっと脳みそに皺となって刻まれて、脳みそに刻まれたものは小手先の喋りテクニックなど要せずとも、自分の口から勝手に言霊となって説得力あることが言えるものなのである。
アドリブのためには、ボキャブラリーが必要だ。
ボキャブラリーを溜めるには、常日頃からこの仕事について考えているか、に尽きる。
これからも考えていくことは絶対にやめない。
おしまい
2009/04/10
もう会えない
メッセンジャーというものを誰かに教えてもらい、それを使って初めて遠く離れた仙ちゃんとチャットをした時、本当に感動したのを覚えている。
たしか大学2年くらいの時だった。
それはもう、本当に感動した。
電話もちょくちょくしていたが、何だろう、「あ、つながった」という感覚というか、もうよく分からんが、これはもうネットが持つ特有の感覚だとしか言いようがない。
そして、大学3年の年末に仙ちゃんにmixiを教えてもらって、昔の知り合いとかと連絡を取るようになった瞬間も、感動とまではいかなかったが、なんだか嬉しい気持ちになった。
2004年の3月31日。高知のネカフェで過ごした夜は、なんだかずいぶん覚えている。
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価値を認めるという行為を取るとき、人の心は動いているとするなら、やはり価値は永遠に消費される宿命を持ったものなのだと、改めて気付かされます。
なぜなら、もう僕は二度とメッセンジャーであのような感動を味わうことがないだろうし、mixiの使い方が(大衆的に)変化していっているのは周知の通りだからです。
価値は、新しい価値によって塗り替えられることを必然としてしまっています。
そんな事を考え始めると、気が狂いそうになるくらい寂しい気持ちになります。
最近は特にそんな感覚を覚えることが多い。
めっきり受信側としてのみ利用するようになったmixiでも、いろんな人の日記を読んでいると、もうたまらなく寂しくなります。
理由は、はっきり言って全くわかりません。
なんだか、全員でお互いを慰めあっているのを見せつけられている気になってしまうから、というのが理由の10%くらいにあるような気がします。
別にmixiは嫌いじゃありません。どちらかと言われれば好きだと答えるし、素晴らしいツールだと思います。
旧知の仲というものがあります。
結婚式やらで高校時代の友人に会うということはたまらなく楽しいことです。
楽しいことのはずです。
僕はそんなことにも、ものすごい寂しさを覚えることがあります。
会った後の別れを想像しているからではありません。会うことが寂しいのです。
僕がmixiに感じる寂しさは、なんだかこれと同じような気がしています。
なんだか最近のエントリーでは寂しいを連発していて一種のマイブームのようですが、この感情の出所はどこか、さっぱりわかりません。
ただ、孤独から来るものじゃなさそうです。
もう人生を悟りきってしまったのでしょうか。
それとも俺も人の子だったということでしょうか。
2009/04/03
知らぬが罪を
40歳超えたら、人は考えていることが顔に出る。
とはよく言われるが、別に10代だろうが20代だろうがそうだと思う。
もっといえば、人の一挙手一投足はすべて考えていることが出ているのだと思う。
「たぶんやる」を連発する人と、「絶対にやる」と言ってくれる人がいれば、
後者のほうが物事にたいして真剣に取り組んでいるのだろうし、
責任感もありそうだ。
だから言葉選びには注意しないといけないよね、と言いたいのではなく、
むしろ逆である。
自然に「絶対にやります」と言ってしまうくらいの責任感を常に持っているのがいいと思う。
それが勝手に一挙手一投足に現れるのだろう。
家で寝たいよぉ。
2009/04/01
2009/03/29
ゲーム音楽のききかた
会社のPCを入れ替えたのでiTunesの登録曲数がゼロになり、現在は適当にピックアップして順次プレイリストを充実させているところだが、なぜか今のところほとんどがゲーム音楽である。
したがって、ひたすらゲーム音楽を聴きながら仕事をするという日々が続いている。
光田康典氏の曲を聞くと、
「なんて空気を読む曲を書く人なんだ」
とつくづく思い知らされる。本当に溜息がでるぜ。
彼の音楽は、ストーリーやシーンを置き去りにしない。
音楽が引っ張るでもなく、シーンが引っ張るでもなく、ゲームの感動は両者が肩をそろえて実現するものだと気付かされる。
だからこそ、彼の音楽を聴いたときに、ある特定のシーンが頭に蘇るのだ。
俺はそれを感動と呼んでいる。
音楽がシーンを置き去りにした例がある。
FF5にビッグブリッヂの死闘なんて曲があって、これは歴代FFの中でも代表曲に数えられるくらい有名で人気の楽曲で、名曲との評も多い。まぁ俺が聞いてもテンションは上がらんことはない。
でも、思い出してほしいのだが。
この曲がただ一度だけ使用される文字通りビッグブリッヂでの攻防線は、劇中でそんなに盛り上がる場所だっただろうか。
別の世界にふと来てしまった主人公たちに、「我々の軍勢は今こうこうこういう状態で、ああいう敵と戦っていたのだがそいつらがすぐそこまで来ている」という事実のみが急に押し付けられ、わけもわからずその気になっている主人公達に少々おいてけぼり感を感じるが、だけど音楽はやたら盛り上がっているからなんだかプレイヤー側も頑張っちゃおうかななんて思ってしまう。
確かこんなくだりだったと記憶している。
なんだか、音楽だけが先行している。
おそらく、ノビーがたまたまカッコいい曲を持ってきたから、この場面で使いましょうという話になったのではないだろうか。
まぁとにかく、名曲かどうかは置いといて、俺はこの曲がどうも薄っぺらく聞こえてしょうがない。
それは俺がゲーム音楽として聴いているからだと思う。
「ゲーム音楽として聴く」というキーワードには、俺は非常に重要な意味を込めた。
以下は、数日後から某ゲーム会社で働く某弟が言っていたことだ。
ゲーム音楽の印象(良し悪し)は、それが使用された場面・シナリオ・シーンに対する印象と不可分である。
(俺はこれを勝手に「ゲーム音楽=思い出論」と名付けた。)
要するに、こういうことである。
例えば俺と某弟の共通理解として、
「この世で最高のゲーム音楽は、天地創造の「帰路」だ」
というものがある。
これはつまり俺たち二人が、このゲームのプレイを通してそのストーリーに大いに共感し、そのクライマックスとしてのオチ(エンディング)に共感した(上述の曲はエンディング曲である)、という経験に置き換えることができるということだ。
細かいことを言ってしまえば、エンディングに感動した時点で、その演出の「一部」である音楽についても不可分に感動しているということになるのだが(当たり前といえば当たり前である)、この指摘の大事なところは、ニコニコ動画やyoutubeにサントラがアップされたりと、「一人歩きしてしまった」ゲーム音楽から、逆算してその音楽が利用されたシーンや演出に感動が還元していく心の動きを捉えたことにある。
そしてゲーム音楽が(というかサントラ全部が)、他の音楽と大きく異なるところは、まさしくそこである。「音楽」と「(作中の)利用シーン」が絶対に不可分な関係として横たわっているのである。しかも音楽→シーン想起という流れが実現してしまっている。
これは音声無しで映画やゲームを普通しないからである。
それに気づいた時、俺はゲーム音楽の「感動」に何を求めるかがはっきりわかったのである。
だから光田康典の書く曲に、俺はゲーム音楽然とした感動を覚えるのである。
ゲーム音楽は「一人歩きできる」が、「一人歩きしてはいけない」のである。
というのが個人的なゲーム音楽に対する持論でした。ちゃんちゃん。
2009/03/28
ライフログ
デジカメが2台連続で壊れてからというもの、「次は一デジかな」とか思いながら結局何も買っていない期間が2年ばかし続いている。
携帯のカメラで代用できれば便利だと気付いたので、京都を出る直前に500万画素を誇るSUMSONG製のデジカメ携帯に変えたが、画質の問題で使い物にならない。しばらく写真から遠ざかる日々が続いた。
親父のおさがりであるオリンパスの一眼レフが家にゴロンと転がっていたので、これにAgfaのウルトラ400とかいうフィルムを搭載(これがモノクロだと現像出した後で気づいた)して、パシャパシャと撮ってみた。今年の正月のことだ。
ドロっとした黒。
ようやく先週くらいに現像から帰ってきた写真を手にしたとき、明らかにデジカメよりおもしろいことに気付いた。
おもろい。おもしろすぎる。
もはやデジカメで写真を撮る気がおきねえな。こりゃ。
2009/03/08
ドリーム オブ リスク
もう一回就活するなら、ゲーム会社も受ける。
もっといえば、もう一回大学生やるなら、ゲーム会社でバイトをする。
小学1年くらいにはじめてゲームに触れてから、
遊び手としてだけではなく、作り手というものを意識しはじめたのは早かった。
10歳に満たないころから、親父が山のように持って帰った設計図の裏に、
想像上のゲーム画面を描いては「こんなゲームを考えた」と言って弟と見せ合う日々が続いた。
ところで、ここ2年くらいか、ゲーム業界にも作家性みたいなブームが出てきた。
ファミ通にも制作者のインタビューが毎号のように掲載されている。
特に「変わったなあ」と思うのは、イラストレーターやコンポーザーといった花形だけではなく、
プロデューサーやディレクターの記事が多いことだ。
俺が熱心な読者だった10代の頃は、そのテの立場で紙面を飾るのは、堀井雄二か坂口博信くらいだった。
なんでこんな時代になったのかは分からない。
人材確保のための業界全体の策略なのかもしれない。
ただ僕は、そういった人のインタビューを読むたびに、感動で震えあがるのと同時に、
大きく嫉妬するのでけは確かなのだった。
「俺もこうなれたのかもしれない」
それは悲しいかな、広告関係のインタビューを読むのより、ずっと強く、だ。
でも俺は、ゲーム業界に行かなくて良かったと思っている。
自分にとってはエポックメイキングな作品のうちの一つ、『Persona』が13年ぶりにリメイクされる。
このニュースは、「数年ぶりに新作のゲームを買ってみようかな」と思わせるくらいの力があった。
ただし購入を断念させる要素があったのだ。
ハードがPSPだった。
制作者として、作品にはエゴを込めるべきだ。
俺のゲームの美学は、「家で腰を落として重厚な作品をどっしりと楽しむ」である。
俺が制作者となったときのエゴは、まさしくこれである。
ただ、世の中のゲームの大多数がWiiやDS、PSPに流れる今となって、
世間一般のエゴと自分のエゴは乖離している。
そこに俺はビジネスとしてのゲームの存在価値について、一生悩むのだろう。
この4月から弟があるゲーム会社大手に、作り手として入社する。
同じ部屋で寝る時も、一緒に風呂に入る時も、20年近くゲームについて語って来た仲である。
奴がゲームに求める美学は、多少のずれこそあるだろうが、だいたいわかる。そして、作り手としての苦悩も。
いろいろあるだろうが、がんばれ。
2009/03/07
2009/02/25
ダダリオがくれた朝
今日はあることに気づいた。
「我が人生に悔いなし」と言ってる人は悔い有る人に違いない。
俺にはその言葉は「悔いがないように思えるように」自分を奮い立たせている(悪く言えば自分を誤魔化している)という風に聞こえる。例外なくである。
その人が本当うはどう思っているのかはわからない。
マジで悔いが無いのかもしれない。
わからないというか、どうでもいい。
ただ、確実に分かっていることがある。
もし俺がその言葉を発する時、それは思い出したくない何かを頭の片隅に想像している時だ。
俺なら、悔いが0%の人生を振り返った時、発する言葉は絶対にそれじゃない。
理想の死に方は。
死の淵に立っても人生を振り返らない人生。
と今思ったけど、それもさみしい。
2009/02/02
メガロマニアに落ちた愛
imasashi mahashiにいい加減人が来ないので、無理やり呼び込もうと写真日記をrssでmixiに飛ばした。
効果てきめんだった。
そうしたら某トランペット先生からメッセージが来た。
電話で同じことを伝えてもらうよりも、文字になっている方が感動することもあるのだと知った。
昨日さんざんネットのことをこき下ろしておいたくせに、胸が熱くなった。
俺も結構適当なものだ。
2009/01/31
havanaへ消えよう
インターネットが好きか嫌いかと言われれば、迷わず嫌いと答える。
同世代の人間の中では、たぶんネットに触れたのは比較的早い方で、中学3年とかそれくらいだったように記憶している。当時はmp3を1曲ダウンロードするのに半日かかった。
中高大学と、たぶん日本人平均以上にネット中心の生活を送り、
そんで、縁があってか今はウェブサイト制作で飯を食っている。
だけどインターネットというものが人間にとって必要なものとは思えない。
無くなってもいいと思う。無くなった方がいいとも思っている。
あくまで漠然とした感覚でものを言っているが。
いろんなことが便利になり、手間をかけずに、安くすますことができるようになった。
だけど、便利になることや手間をかけないことや安くすませることが、世の中にとってどうしていいことなのか、という疑問に答えてくれた人は今んとこ皆無である。
人間と人間が会わなくても、ことがトントン拍子で進むこのシステムはなんだか危険な気がする。
制作者という観点からみても、ユーザービリティという名のついた何の実態もない指標を「個人個人のあくまで想像に従って」ひたする遵守しようとする態度に、違和感を覚える。
どうもサイト制作を管理する立場の人が、現場のスタッフを丸めこませるために生み出した言葉のような気がしてならない。
インターネットがダメだとか言うつもりはなくて、むしろ日本人平均以上にはその発展に期待している一人である。
物ごころついた頃からいろんなものを疑ってきた。
自分という人間を語るには(現時点では)どうしてもそこに落ち着く。
これで食っていくと決めたからこそ、一番疑っていたい。
サイト制作者として、そんくらいのつもりで仕事に臨んだ方が、健康だと思っている。