会社のPCを入れ替えたのでiTunesの登録曲数がゼロになり、現在は適当にピックアップして順次プレイリストを充実させているところだが、なぜか今のところほとんどがゲーム音楽である。
したがって、ひたすらゲーム音楽を聴きながら仕事をするという日々が続いている。
光田康典氏の曲を聞くと、
「なんて空気を読む曲を書く人なんだ」
とつくづく思い知らされる。本当に溜息がでるぜ。
彼の音楽は、ストーリーやシーンを置き去りにしない。
音楽が引っ張るでもなく、シーンが引っ張るでもなく、ゲームの感動は両者が肩をそろえて実現するものだと気付かされる。
だからこそ、彼の音楽を聴いたときに、ある特定のシーンが頭に蘇るのだ。
俺はそれを感動と呼んでいる。
音楽がシーンを置き去りにした例がある。
FF5にビッグブリッヂの死闘なんて曲があって、これは歴代FFの中でも代表曲に数えられるくらい有名で人気の楽曲で、名曲との評も多い。まぁ俺が聞いてもテンションは上がらんことはない。
でも、思い出してほしいのだが。
この曲がただ一度だけ使用される文字通りビッグブリッヂでの攻防線は、劇中でそんなに盛り上がる場所だっただろうか。
別の世界にふと来てしまった主人公たちに、「我々の軍勢は今こうこうこういう状態で、ああいう敵と戦っていたのだがそいつらがすぐそこまで来ている」という事実のみが急に押し付けられ、わけもわからずその気になっている主人公達に少々おいてけぼり感を感じるが、だけど音楽はやたら盛り上がっているからなんだかプレイヤー側も頑張っちゃおうかななんて思ってしまう。
確かこんなくだりだったと記憶している。
なんだか、音楽だけが先行している。
おそらく、ノビーがたまたまカッコいい曲を持ってきたから、この場面で使いましょうという話になったのではないだろうか。
まぁとにかく、名曲かどうかは置いといて、俺はこの曲がどうも薄っぺらく聞こえてしょうがない。
それは俺がゲーム音楽として聴いているからだと思う。
「ゲーム音楽として聴く」というキーワードには、俺は非常に重要な意味を込めた。
以下は、数日後から某ゲーム会社で働く某弟が言っていたことだ。
ゲーム音楽の印象(良し悪し)は、それが使用された場面・シナリオ・シーンに対する印象と不可分である。
(俺はこれを勝手に「ゲーム音楽=思い出論」と名付けた。)
要するに、こういうことである。
例えば俺と某弟の共通理解として、
「この世で最高のゲーム音楽は、天地創造の「帰路」だ」
というものがある。
これはつまり俺たち二人が、このゲームのプレイを通してそのストーリーに大いに共感し、そのクライマックスとしてのオチ(エンディング)に共感した(上述の曲はエンディング曲である)、という経験に置き換えることができるということだ。
細かいことを言ってしまえば、エンディングに感動した時点で、その演出の「一部」である音楽についても不可分に感動しているということになるのだが(当たり前といえば当たり前である)、この指摘の大事なところは、ニコニコ動画やyoutubeにサントラがアップされたりと、「一人歩きしてしまった」ゲーム音楽から、逆算してその音楽が利用されたシーンや演出に感動が還元していく心の動きを捉えたことにある。
そしてゲーム音楽が(というかサントラ全部が)、他の音楽と大きく異なるところは、まさしくそこである。「音楽」と「(作中の)利用シーン」が絶対に不可分な関係として横たわっているのである。しかも音楽→シーン想起という流れが実現してしまっている。
これは音声無しで映画やゲームを普通しないからである。
それに気づいた時、俺はゲーム音楽の「感動」に何を求めるかがはっきりわかったのである。
だから光田康典の書く曲に、俺はゲーム音楽然とした感動を覚えるのである。
ゲーム音楽は「一人歩きできる」が、「一人歩きしてはいけない」のである。
というのが個人的なゲーム音楽に対する持論でした。ちゃんちゃん。
2009/03/29
ゲーム音楽のききかた
時刻:
21:04
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