メッセンジャーというものを誰かに教えてもらい、それを使って初めて遠く離れた仙ちゃんとチャットをした時、本当に感動したのを覚えている。
たしか大学2年くらいの時だった。
それはもう、本当に感動した。
電話もちょくちょくしていたが、何だろう、「あ、つながった」という感覚というか、もうよく分からんが、これはもうネットが持つ特有の感覚だとしか言いようがない。
そして、大学3年の年末に仙ちゃんにmixiを教えてもらって、昔の知り合いとかと連絡を取るようになった瞬間も、感動とまではいかなかったが、なんだか嬉しい気持ちになった。
2004年の3月31日。高知のネカフェで過ごした夜は、なんだかずいぶん覚えている。
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価値を認めるという行為を取るとき、人の心は動いているとするなら、やはり価値は永遠に消費される宿命を持ったものなのだと、改めて気付かされます。
なぜなら、もう僕は二度とメッセンジャーであのような感動を味わうことがないだろうし、mixiの使い方が(大衆的に)変化していっているのは周知の通りだからです。
価値は、新しい価値によって塗り替えられることを必然としてしまっています。
そんな事を考え始めると、気が狂いそうになるくらい寂しい気持ちになります。
最近は特にそんな感覚を覚えることが多い。
めっきり受信側としてのみ利用するようになったmixiでも、いろんな人の日記を読んでいると、もうたまらなく寂しくなります。
理由は、はっきり言って全くわかりません。
なんだか、全員でお互いを慰めあっているのを見せつけられている気になってしまうから、というのが理由の10%くらいにあるような気がします。
別にmixiは嫌いじゃありません。どちらかと言われれば好きだと答えるし、素晴らしいツールだと思います。
旧知の仲というものがあります。
結婚式やらで高校時代の友人に会うということはたまらなく楽しいことです。
楽しいことのはずです。
僕はそんなことにも、ものすごい寂しさを覚えることがあります。
会った後の別れを想像しているからではありません。会うことが寂しいのです。
僕がmixiに感じる寂しさは、なんだかこれと同じような気がしています。
なんだか最近のエントリーでは寂しいを連発していて一種のマイブームのようですが、この感情の出所はどこか、さっぱりわかりません。
ただ、孤独から来るものじゃなさそうです。
もう人生を悟りきってしまったのでしょうか。
それとも俺も人の子だったということでしょうか。
2009/04/10
もう会えない
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1:26
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2 件のコメント:
会うことが寂しいっての、なんかわかるわー
おお竹馬の友よ。嬉しいぞ。
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