なんだか最近、やたら女の事を考えている。
「女の子の事」というよりは「女とはどういうものか」ということを考えている、と言った方が近い。
もちろんそれは、映画や漫画のゲームの登場人物だったり、自分の周りにいる女の子のことを考えた延長線上に浮かび上がる像としてなのだが。
別にその問に対する明快な答えが欲しいから考えているわけではないし、
従ってこの場でそれを提供できるほど俺は何かを見つけ出したわけではもちろんない。
しかしどうしても抜け出せない感覚がある。
女のほうが男よりドラマチックな存在だということだ。
ちなみにドラマチックとはどういうことかと言うと、その対象が属している文脈に大きく影響力を持っている、という意味である。
自分はここ数年間、性としての男という意味では全く自分のことが信用ならんかったわけだが、上のように考えるとその気持ちの出所がわりとはっきり見えてくる。
世の大多数の男は女の事を(一緒にいて落ち着くとか、遊び相手として適任とか、セックスの相手としておーけーとかそういう話じゃなくて)自分の感情を揺さぶる対象として「愛している」と言う。
で、ライフイズビューティフルでロベルト・ベニーニが超絶かっこよかったのは、女にベタ惚れしながら、自身はドラマチックな存在を貫き通したからだ。と思う。
一番かっこいいのは、惚れた本人がドラマチックな存在になることである。
一番カッコ悪いのは、惚れた本人がドラマチックな存在にならないことである。
(蛇足だが、誰にも惚れてない奴がドラマチックな存在にならないことは当然で、
誰にも惚れていない奴がドラマチックな存在になるのはただずるいだけである。)
このエントリーを書いてて気づいたことは、自分は↑の2番目になろうとしているということだ。
うおお超かっこ悪い。
そういう文脈で見れば、さんざんデカい話に広がった末にそのエンディングにてボーイミーツガールという話に収束するという意味で一緒だと考えていた天地創造とクロノクロスは、惚れた本人がドラマチックな存在、つまり主役(キッドは設定上主役ではないが明らかにクロノクロスはキッドの物語である)であるという点でも一致をみる。
しかし両者で決定的に違う点がある。
前者が男が女に会いに行く話であるのに対し、後者は女が男に会いに行く話だったという点である。
この違いが大問題なのである。
両者から同じ感動(=こういう経験したいわぁ)を享受している時点で、俺はドラマ性というある意味責任と呼べるものを女に押し付けている「部分がある」ということになる。
男なら、この物語を全く逆の感動として捉えなければならない。
(男なら、と書いたがもし俺が女だったとしても一緒である。男と女をそのまま入れ替えればよい。)
要するに、これを解決しないといつまでも結婚できないヨという話である。
おしまい
2009/06/22
アークは最後の夢を見た
時刻:
1:12
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