2007/10/12

自己表現という視点で人の相性を考える

自己表現という言葉自体はなかなか嫌いな部類に入る。
理由は「自己表現をする」という至極当たり前の行為が巷ではあたかも特別であるかのように論じられるからだ。従って厳密には単語自体が嫌いなわけではない。
モテるからキムタクが嫌い、という動機と同じである。
まあ俺はキムタクがキャラとして嫌いだ。

さて嫌いとは言ったものの現在ほかに適当な言葉が思いつかないので今日はこの単語を使う。

最初に今日の議題の結論を言っておくと、「正確に自己表現できている人間同士の付き合いってハッピーだよね」ということである。


「なんとなくこいつとは同じ方向を向いているわ」と感じられると、仲良くなる動機として強い。

例えば俺はブランキー好きだが、他のブランキー好きとは何だかウマがあうことが多い。
ブランキー好きに共通する嗜好性というものが恐らく存在して、それを共有できるからである。

上の例はブランキーという象徴的な媒介があるのでわかりやすすぎる例になってしまったが、「仲良くなる」という現象には何かしら人間の方向性に関して共有するものがあるのだと思う。

じゃあその「こいつは同じ方向を向いているわ」と、人の何から判断しているか。
それを今回は広い意味での自己表現だと言っているのでR。

バンドマンなら自己表現として音楽を想像するだろうか。
例えばライブを見ていていれば言葉を交わさないまでもその人がどんなキャラか(どこを向いているか)分かってまうでしょう。
しかしそれは極めて特殊な例であって、言葉使いであるとかしぐさとか表情とか笑いのツボなどの人と接する際に必ず通過する行為だってこの意味での自己表現に含まれるのだ。
というか今回の議題においてはこっちの方が本当の自己表現と言える。

「自己表現というアウトプット」作業を一旦完了した形でしか、他人は自分を捉えられない。

そこで自己表現の「正確さ」が大事になってくる。
つまりライブや日常会話で発揮している自己は本当に自分を投影したものになっているか、である。

正確に自己表現できていると、恐らく自然に同じ方向を向いた仲間が周りに集まるだろう。

自己表現に正確さが無ければ、他人は自分を本来とは異なった見方で捉える。
そのような人は「どうもよく一緒につるむ友達はいるが、妙に気が合わない」と悩むこと甚だしい結果になってしまうこと甚だしい。

まあ、俺もちょっとそのケがある。
というか、正確には「あった」。

だから俺はこんなことをわざわざ考えているのだろう。
山中とかまるさんとか白坂とか見ていると、「こいつ一生こんなこと考えもせんやろな」と思う。

俺からしたらこういう人間はキヨーである。

逆にブキヨーな人間は我慢をするハメになる。
倉都とか木全とかはこういう部類じゃないだろうか。
勝手に言ってごめんやけど。

ブキヨーな人間はどうすればキヨーになれるか。
普段から自分の言動にシビアになる他ない。
「日常生活からそんなストイックに生きられへんわボケ!」と思う人はまあそれでもヨロシ。

俺はそういうストイックさが嫌いじゃない。

そしてそのストイックが板についてきたらちょっとずつ楽になってくる。

俺はこの2年間で楽になった。

俺ちゃんキヨーになってきぜ。へっへっへ。

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