たしかあれは2006の山野の次の日にダークとどっか(中央やったっけ)がクロコダイルで対バンして
その打ち上げに行きましょうかねと言いながら、現役から場所についての連絡を受けるのを
待っている間にどっかの駅降りたところで泰静と西畠と3人で話している時だったと思うんだが。
泰静と西畠は考え方が似てる。
そんでいまさしの考え方はとても自由だ。羨ましい。
なんてことを泰静が言っていた。
俺もその頃はそう思っていた。
まぁ正直言って優越感も持っちゃったりしていた。そんときは。
しかしいつぞやかこの場所で言ったように、
結局俺のものの考え方なんてそんなに柔軟ななものではなかったのだ
というのが最近の俺の流行りである。
そういうフィルタを通して見たとき、泰静-西畠ペアと俺の違いというのは
「リアリストかそうでないか」というだけであって、
発想が自由かどうかではないことに気づく。
リアリストというのは、
つまり「制約条件を意識して」、「最善解ではなく」、最適解を求めるひとたち。
というのが俺の解釈だ。
特に、その制約条件というのが自分の力だけでは如何ともし難い強大なものである。
※この場でいうリアリストとは逆の意味で俺が属する立場をイデアリストと呼んでおくが、
俺は別に理想主義なわけじゃないから、便宜上の呼称であることをご注意願いたい。
そう言ってしまえば別に泰静も西畠も現実主義ではないから定義的な意味で
彼らのことをリアリストと考えないで頂きたい。
いちいち「制約条件を意識する人たち」とキーボードを打つのがめんどくさいから
そう呼んでおく、程度のことである。
修論進める上で、
「あっちが起てばこっちが起たず」
という状況を何度も何度も経験する上で、
リアリストでい続けるということがどんだけエネルギーの要ることなのかがうっすらと分かった。
それまではリアリストのことをちょっと小馬鹿にしていたところがあったんだけど。
そこから出る結論がどうとか、そういう話じゃなくて、
リアリスト的にものを考えるということそのものが、なんかすごいなあ、という感じ。
それはもちろん「俺とは明らかに方向性が違うわ」という意味も含まれているのだけれど。
ところで、
リアリストの最たるものはたぶん政治家だと思う。
昔は政治家のことをうさんくさいくらいにしか思ってなかったが、
最近は、あの人たちも環境、経済、社会、建設、流通、俺らが想像するより
はるかに多くの制約条件の中で答えを出そうと必死なんだろうと思う。
そのために恐らく膨大な量の勉強をしてきたはずだ。
そんな政治家ばかりではないのも知ってるけど。
それもやっぱり修論進める上で主に建築関係の法令とか会計法などに目を通した時に、
俺はそこで初めて法律というものの中で意識されている制約条件の数が半端ないことに気づいた
ことが大きいと思う。
そこで展開されている世界は、
一つの建築が建つということは天文学的数字に及ぶ(言いすぎ)制約を乗り越えた上で、
ようやく成立しているというものだった。
同時に「俺には手に負えん」とも思った。
そして俺は建設業界には進まず、より制約の少ない広告というジャンルを選んだ。
対して泰静はてっきり政策関係の道に進むのかと思いきや、
いきなり民間の不動産に行っちゃったりして、「あれれ」と思っていたのだが、
恐らくこの世の産業と呼ばれるものの中で最も制約条件が多い建設産業に足を踏み入れたことは、
意識的か無意識的か、やっぱり泰静らしいのである。
人の決断は、結局その人が出るのである。
うーんおもしろい。
逆に漫画家とかゲームクリエイターのような、虚像としての世界を構築する人たちは、
イデアリストだと思う。
例えば熱血野球漫画にいきなり宇宙人が出るのはおかしいなど、
そういう制約はもちろんあるのだが、「熱血野球漫画」という世界を自分で選択できるという点で
やはりイデアル的である。
しかし実に練られた漫画やゲームであればあるほど
自ら構築した世界の中でつじつまが合うようにしなければならず、
そういう意味ではリアリスト的な感覚も求められるはずだ。
つまりバランスなのである。
というか100%純粋なイデアリストは間違いなく犯罪者になっているはずだ。
政治家だって全員が100%純粋なリアリストだったら恐らく「決めごと」は不可能である。
どちらが強いはあるにしろ、俺らにはリアリスト的な部分とイデアリスト的な部分があるから、
社会の中で生きて行きながら、変化していけるのだと思う。
2008/02/04
イデアル先生
時刻:
2:22
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