2008/02/28

YUKI

もう雪が嫌いでしょうがない。
あんなものクリスマスだけに降ればいいと思っている。

ただそれだとスキー産業に従事する方たちの収入源が断たれ、
雇用問題に深刻なダメージを及ぼすことになるので、
せっかく売り手市場となった就職活動が逆戻りするという危険を伴うこと必須であるし、
雪が降っているのを見るのは結構好きである。

俺がこう思うようになったのは恐らく原チャで移動するようになってからだ。

従って俺の周りだけ雪が避けて通るシステムの実現が望ましい。

以前この場所で「俺は誤解されるということが一番嫌だ」と言った。
それは自分がありのままでない状態であるからだ。
俺は100%という状態に美学を感じるのであって、
誤解されるという状態は100%でない。
だから嫌いだ。

雪や雨も同じであって、
晴れの日に100%の状態で運転できる現チャが雪や雨によって100%でなくなる。
前は見えないし路面は滑るしでいろいろなことを気にしないといけないし、
第一寒い。
だから嫌いだ。

ちなみにYUKIは大好きである。



未曾有の異常気象を目下経験中の京都では昨日も雪が降った。
そんな中センセイとの打ち合わせの日程を勘違いしたために
吉田-桂間を2往復するハメになり(計2時間半)、しかも単車の教習を2時間みっちり受けてしまった。

気が狂いそうになった。



その後ショメショメになりながらもリズム飲みに合流した。
エディと2時間ボケ続けた。


もうあいつとは1年間喋らなくていいな。


2年弱、敢えて封印してた真面目な話を全くしない飲み会というのも、
これはこれで寂しい気もする。

2008/02/27

塩ノ谷幸司に捧ぐ

最近は色々ありすぎて私のライフワークでもなんでもないこの五臓六腑も停滞の限りを尽くしていた。
おかげで日毎のアクセス数も減少の一途を辿ることとなっている。

とりあえず無事に卒業できそうだということが現在分かっている。
4月からの新居も決まった。この詳細はまた後日一筆添えることとする。


特筆すべきことと言えば、ダブルフォースのワンマンがあった。

塩ノ谷幸司という関西学生フルバン界でその名を轟かせる大先輩が
どうしてどこの馬の骨かも分からないこのうんこベーシストを
このバンドのために拾ってやるかと思い立った経緯はよくわからないが、
恐らくネットオタクという共通項が裏で糸を引いているのではないかと俺は考えている。

そんなこんなでネットは恐ろしい。


それからというもの
俺は半年に1回ほど多喜が無理なライブに呼ばれてライブすることとなった。

2008年1月は下宿に4回しか帰らないという生活が示す通り、
初ワンマンに向けて猛練習していた(と想像する)他メンバーを尻目に全ての合奏を休む。
2月は2月で思っていたのより10倍忙しい現実に追われ個人練ほぼゼロで
結局2回のリハ、しかも両日ともドラムのサコが早退という都合も合わせて
いまさし個人としては合計4時間の練習時間を武器に望んだライブだった。

はっきり言って不安で不安で、

前日は爆睡した。

今、恐る恐る録音聴いている。
まあそう悪くない。

The Happy Songで何故か任されたベーソロも何とか乗り切っている。
この曲は管楽器にとってはしらんがベーシストにとってはやたら進行がややこしくて
正直鬼門なのであるが、まぁよかった。
またドラクエをやってしまったことには目をつぶろう。

俺の場合、ライブ録音は何度も聴いてしまう録音と、
一回聴いただけでお蔵入りしてしまう録音にはっきり分かれるが、
これは何度も聴いてしまう部類に入りそうだ。

自分で驚いたことだが、
ライブ中に、「やけに冷静だな俺」と思っている部分があって、
リハでは絶対間違えていた事が本番でいきなりできていたりした。

昔は本番になると興奮しすぎて「何がなんだかわからないけど盛り上がっている」
という状況によくなっていたが、
その頃に比べたら随分成長したということにしておこう。


白坂が最後に出演するMOJO SAMが見れなかったのははっきり言って痛かったが、
いちファンとしてダブルフォースを客としてみると同時に
出演もできる日としてお買い得感満載だったのではないか。


特に高田組長のA Night In Tunisiaは震えがくるくらいかっこよかった。
客として見れてよかったと思っている。

高田組長と言えば、
その名前が示すとおり、肩がぶつかったら即謝ってしまうような風貌に反して
何かしらチャーミングな雰囲気漂うお兄さんで
「この人はただものじゃない」
とずっと思っていた矢先、さっきmixiのページをハケーンした。

日記が面白すぎた。

やはりただものじゃなかった。




てっきり朝まで飲み会やるんかと思っていて
伏見の追いコンに行ったらその間に飲み会が終わっていた。

泣ける。

この俺にしては珍しく「話したい」と思う人が結構いるバンドなのに、
ちょっとこれは長い間後悔するかもしれない。


願わくば、もっとこのバンドと関わりたかった。

それもこれも多喜がまわしてくるライブが全部イベントもので
打ち上げがないものが大半だったからである。


東京遠征は楽しかったなぁ。


塩ノ谷さん、
このワンマンを通して
あなたのフルバンにかける想いには感動しました。

誘って頂き、本当にありがとうございます。

2008/02/22

アウトプットとしての歌

これは何の理屈でもなく、「何かそう思う」くらいの話でしかないが、
絵を描く者として、デッサンは必ずできる必要があると思っている。
絵としての説得力みたいなもんを求めるなら、「ものを見たままに写実的に描ける」という能力が最低限必要なのではないだろうか。

それがCGのようにマウスを使った表現であっても
漫画のようにデフォルメされた表現であっても、そう思う。

たぶんあだち充はああ見えてたぶんデッサンが結構うまいんだろうと思う。
たぶん働きマンを描いている女は見た通りデッサンが下手糞なんだろうと思う。
完全に「気がする」レベルの話だが。
だからというわけではないが、働きマンは結構嫌いな部類に入る。


音楽の話に置き換えてみる。
ここでいうデッサン力は、歌うという行為に相当するだろうというのが俺の持論だ。

昔、山口さんが「聴けること以上のことは演奏できない」と言っていた。
プロの演奏を聴いてそこから微妙なノリとかニュアンスを感じられない人は、そのニュアンスを楽器で表現できないということだと理解している。
同感も同感。同感至極である。
これはインプットの話である。

ほんで、俺はそれを踏まえて次に「歌えること以上のことは演奏できない」と思う。
これはアウトプットの話である。
最も身近でお手軽な表現手段である「歌」は、その人がどれ程ニュアンスとノリを感受できているかという点で、完全にとは言わないがかなり近い形で表現していると思う。
昔ダーク2005でカラオケに行ったことがあるが、泰静の歌はやっぱり泰静のテナーだったし、ちゃっかの歌はやっぱりちゃっかのテナーだった。
上の2人がそうだという意味ではなく、演奏がグルーヴレス(この言葉使いたくないなあ)な奴は、そいつの歌練を聞いてもグルーヴレスなのである。
まあ歌練の場合は「照れ」という要素も関与しているだろうが。

もっと単純な話、曲に合わせて2-4で手を叩かせてもそいつがどんだけのことを感じているかが分かる。
やっぱり気の抜けた演奏をする奴は、気の抜けた手拍子をかましてくれる。

ちなみに、とりあえず自分のことは棚に上げている。


スイングのベースラインを歌う姿がよく気持ち悪いと言われる俺だが、
歌っているときは常に「いかに歌えばスイングっぽく歌えるか」ということを気にして歌っている。
ベースというアウトプット機器を使用した場合にそれが表現できるかどうかはまた別の練習が必要だが、アウトプットの第1段階として歌でそれを表現できるようになればこれは強いぞと思う。

これなら楽器もいらんし、イメージ力強化という点でもいいと思う。




しかし、となると、有名なジャズメンはみんな歌がうまいということになる。
なんかそれも違うような気がするから、ひょっとしたら俺だけに相当する話かもしれない。


ちなみに元ストレイキャッツのベーシストであるリー・ロッカーは
ブライアンセッツァーよりも歌がうまい。
ただしセッツァーにはあってロッカーには無いものがあった。
「華」だ。

悲しいのう。

2008/02/20

夢のしょぼさ

学生生活に6年という時間を費やし、
恐らくそのうち75%くらいはバンドで語れるという
見ようによってはまぁ幅の狭い生活ではあったかもしれないが、
それなりに身分相応(のつもり)である夢というか欲求というものを
逐次叶えていくあるいは満たしていくというプロセスだった。

近いところでいうと、去年にはかねてから
「演奏したい!!」
と思いまくっていたカウント商店のベイシー坊やの「The Heats' On」と
ミンガス兄貴の「Moanin' Mambo」を演奏することができた。
叶えてくれたのはダブルフォースだった。

定演ではかねてから実現したい!!と思いまくっていた
ベースという楽器で客とのコール&レスポンスをすることができた。
叶えてくれたのはおかんの知恵だった。

今週末はかねてから
「演奏したい!!」
と思いまくっていたRyan Hainesの「Like Thunder」を演奏することができる。
わーい。
リハの時点で演奏中に自分で体が震えたんだもん。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2/23(土)
Double Force Jazz Orchestra ワンマン 
@京都RAG
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いやーん。
悲しいことに、かねてから
「最後に一度見たい!!」
と思っていたMOJO SAMとかぶっている。
(T_T) オワタ





「なんだ。いまさしの夢なんてものは25歳になったというのに随分しょぼいもんだな」
と思われるかもしれません。

ただ、「夢のしょぼさ」ってのが実は明るく生きるポイントなのではないかと、
最近は思っています。

全く同じことを実現するでも、
それを当然としてみるよりも夢として語ることができたら、
日常生活が楽しいことばかりです。

それによってでかい夢を抱かないようになってしまうと、
これはこれであきませんがね。



さて、
恐らく現在決まっているライブで、学生生活のライブは全て終わることでしょう。
その中で
・ゲーム音楽をバンドでやる
・ベース以外でライブをやる
この2つの夢は叶えます。

残るは
・Duke屋さんのエリントンヌ君の「Perdido」をやる
・弾き語りをやる
・6弦ベースでサンプリングしながら一人ライブをする
という夢です。
これらはなんかちょっとどうでもよくなっているので、
まぁそのうちかなえるとします。

2008/02/18

時間の遣い下手

音楽を聴いている時間が無駄なんじゃないか。
とかたまに思います。特に最近。

音とりのために音源聴かなあかんとか、
「誰かに借りたCDだから聴いてみよう」とかはいいんだけど。

今まで何十周、何百周聴いたかもわからんような曲を聴きながら、
「あーやっぱり大好きだわ」
とか思いながらぼーーっとして、
気付いたら1時間経ってたとか、
ちょっと気が狂いそうです。

「音楽を聴く時間が無駄」となかなか挑戦的な言い方をしてしまいましたが、
俺の場合、音楽を聴くと聴き入ってしまい、
他のことに頭が回らなくなるからアカンのです。

その間、事態は何も進展していないからです。

それだったら新しい表現を探ってフォトショップいじったり、
ホームページ創ったり、
楽器の練習したり、
文章書いたりするほうがずっと有効な気がします。

あるいは修論の修正項目を整理したり、
新居契約のために住民票を取得しに行ったり、
2年間滞納している原チャ税を払いにいったり、
カードが紛失している銀行へ問い合わせに行ったり、
単車の教習所の予定あわせとか、
いろいろなことを清算せなばなりません。

特に学生生活もあと1ヶ月半とせまり、
時間がとにかく無くてやらなあかんことが山積している今の状況、
受身になっている時間はもったいないです。




えーと、
残りの時間で
京都に来てから知り合った皆に会いに行きたいです。

2008/02/14

京都バーニング楽団オンライン

ホームページ作っていたら24時間たっていたという逸話が伝説化しているいまさしさんですが(実話)、
メンバーに了承も得ずに独断で制作していた京都バーニング楽団のホームページを
「一般オープンしよう!!」と勝手にバンドの総意あるかのように決め付け
皆様のお目に触れる機会を無理やり設けることとアイなりましたのでこの場でご報告申し上げます。

まぁはっきり言ってしまうと自信作です。
決して大作ではありませんが、
俺が今まで作ったホームページの中で一番かっこいいと思っちゃって候。
テヘッ。


以下セルフレビュー

このページでは「スクエアからの脱却」をテーマにしました。
四角のことです。

ホームページを作るに当たって最も基本的な図形はスクエアです。
というかパソコン上で何か作業をする以上、基本単位はスクエアであることが多いです。
ぱっと見ただけで検索窓、下部のツールバー、ページ上のテーブル、ボタン…などなど、
ディスプレイ上に膨大な数の□を発見できるでしょう。
恐らく数式で図形を表現する時、ドットとパスで表すのが都合いい、というか楽だからです。
またスクエアはスペースの効率化という面からも丁度いい。

逆に言うとパソコンで何かを制作する際、スクエアの呪縛というのがどうしてもついてまわる。
何を作るにしても、スクエアの組み合わせになってしまう。

まぁ、基本的にスクエアというのはスマートな図形であるので
それでかっこいいものが作れるのではあ~る。

ただ最近の「どうも自分が作るものが同じものににしか見えん」という欲求不満と
そもそも京都バーニング楽団の誰を見てもスマートとは程遠い連中でしか構成されてない
という現実を照らし合わせて、テキストスペース以外はスクエアをごっそり無くしました。

「そもそも後1回のライブで分解する予定(なのか?)のバンドなので載せる内容が異常に少ない」
というのもこの方針にぴったり当てはまりました。

なんでテキストスペースはスクエアのままかというと、
写真のスペースとテキストスペースを「図」と「地」の関係に配置しようと思ったからです。
片方に注視しているともう片方が背景になるというアレです。

まぁまぁ住み分けが図れたと思います。




そして、これが一番大事なところなのですが、

全部後付けです。



以上セルフレビュー





どういう形であれ、感想を頂けるとうれしいのな。


http://burning.imasashi.ikidane.com/

2008/02/11

シットマン・ブルース

来年度よりの新居を探す旅に来ている。場所はTOKYO。

せっかくなので新宿のとあるゲーム会社で並みのリーマンよりも働いている
弟と飯を食った。

そこで俺は
「外交というものの裏は政治家としての嫉妬心で説明できる」
という論を展開すると、ものの見事にボコボコにされてしまった。


嫉妬とはどういうものだろうか。
恐らく、誰かある人物が自分の望むような立場にいることに憧れを抱きつつも、
立場上や何らかの要因でそれを肯定的に受け止めることができない心情
とでも言えるだろう。
多分誰もが思いつく内容である。

嫉妬を覚えた経験のある方なら誰でもおわかりになろうが、
この気持ちはどんな気持ちにも代え難いしんどさがある。
正直俺は大嫌いだ。

これは俺が思うに嫉妬心という心情自体が矛盾の上に成り立つものだからだ。

以下、もともと俺は嫉妬心というものの全てをここで語ろうとしているのではない
ということを了解した上で読み進めて欲しい。

何からの要因で他人を肯定的に受け止めることができないのは、プライドのせいである。
そこには自尊心が発生する。
自尊心とは価値判断を自分に任せる行為のうちの一つである。
しかしある特定の人を見て「この人の立場になりたい」と思っている時点で、
そいつは価値判断を自分の外に追いやっていると言える。

つまり嫉妬心を抱くということは、
価値判断を外と内に任せるというダブルアクションを同時に行うという意味で
矛盾なのである。

その整合性の欠如が、あの嫉妬心特有のしんどさの基なのではないだろうか。




俺はこの場所でも度々書いてきたとおり元来重度の嫉妬屋さんであり、
22か23くらいまではそれで随分悶々とした日々を送ってきた。
嫉妬が大嫌いだった俺はそれを「価値判断の完全内在化」という形で解決してしまった。
もう誰を見ても「ああなりたい」と思わなくなったし、
今現在自分が自分であることに絶対的な誇りを持つようになった。
おかげで自信が身についたし、
後輩から「キャラ変わりましたね」と言われるくらい誰とも素直な感じで接することができるようになった。

ただしそれはある意味「変化への諦め」を伴っていることが危険だ。
思えばダークをやっていたあの頃は嫉妬心との抗争の経緯として、
今でもドラマチックな青春として俺の大事な記憶となっている。
そこに変化があったからだ。

嫉妬心を捨てた俺はこれから変わることができるだろうか。
それを試す場としてもはや社会人しか残されていないということに危険は感じるが、
実際まぁどうでもええわというのが本音である。

2008/02/07

僕は行くよ

思うに、自分の立ち位置を決定するものは「意志」及び「意志表示」である。
それは明確であればあるほど強いものとして機能する。

そして「意志」を生むのは「決定の連続」に他ならない。

さらに言うと「決定の連続」には思考回転とそのスピードによって決まる時間を要する。


奴がどんだけ時間をかけて達した結論かは知らないが、
去年の木本がある意味「わかりやすい存在」となっているのは
奴自身がD軍及びブログという媒体を通じて行った意志表示の結果による。
ちなみにここでは断じてキャラの話をしているのではない。



ところで、
決定を躊躇する人間はすなわち意志表示する手段を持たない。
しかし特にそれで生活が困らないというシステムに日本はなっている。
幸か不幸かは知らない。


しかし、来年から始まる社会人生活において、
意志表示だけは絶対に怠らないつもりだ。
それが社会におけるマネーとはまた違った意味での武器になるうると信じるし、
第一それが俺には快感だからだ。

さて、社会的責任を比較的負わなくてもかまわない若造のうちは
誤った意志表示をすることが許される。

しかし同時に、ちょうど俺らの世代は「分からない」「どないしましょ」という「意志表示以前」では
押し通せない年齢に差し掛かっていることも実感した。

つまり「最も挑戦的になりえる立場」に今いると言える。

社会人1年目から、長く見積もって5年目はこの期間に相当すると予想する。

その挑戦的になってもいい時期を有効に活用するには、数多くの意志表示をすることだ。
特に広告界を牛耳るフィクサーとかそんなビッグな人間になるつもりはさらさらないとは伝えたが、
意志表示をしていくつもりはある。

そしてそれが社会の空気を読めているものなら結果は勝手にあとからついてくるはずである。
その空気の読み方は、5年間でどれだけ意志表示を行えたか、「数」次第だと考えている。


俺は修論でそれを実践しなかった。
最後まで内容に興味を持てなかったからだと言えば逃げだろうか。
加えて思考回転スピードが決定的に遅いという欠点を持っていることも自覚している。
しかしだからこそ最も興味を持てる分野に就職した。
ここで駄目なら俺は何をやっても駄目だろう。


俺が修論を通して(その出来の悪いさの原因を今の段階で探って)感じたことと、
その合間に読んでいた「沈黙の艦隊」で気づいたことは、
上記の点で、つまり「意志表示が持つ意味」に関して一致した。






とにかく今日、卒業が確定した。


なのに明日がゼミとは、どういうことだ。

2008/02/04

イデアル先生

たしかあれは2006の山野の次の日にダークとどっか(中央やったっけ)がクロコダイルで対バンして
その打ち上げに行きましょうかねと言いながら、現役から場所についての連絡を受けるのを
待っている間にどっかの駅降りたところで泰静と西畠と3人で話している時だったと思うんだが。

泰静と西畠は考え方が似てる。
そんでいまさしの考え方はとても自由だ。羨ましい。

なんてことを泰静が言っていた。
俺もその頃はそう思っていた。
まぁ正直言って優越感も持っちゃったりしていた。そんときは。

しかしいつぞやかこの場所で言ったように、
結局俺のものの考え方なんてそんなに柔軟ななものではなかったのだ
というのが最近の俺の流行りである。

そういうフィルタを通して見たとき、泰静-西畠ペアと俺の違いというのは
「リアリストかそうでないか」というだけであって、
発想が自由かどうかではないことに気づく。


リアリストというのは、
つまり「制約条件を意識して」、「最善解ではなく」、最適解を求めるひとたち。
というのが俺の解釈だ。
特に、その制約条件というのが自分の力だけでは如何ともし難い強大なものである。

※この場でいうリアリストとは逆の意味で俺が属する立場をイデアリストと呼んでおくが、
俺は別に理想主義なわけじゃないから、便宜上の呼称であることをご注意願いたい。
そう言ってしまえば別に泰静も西畠も現実主義ではないから定義的な意味で
彼らのことをリアリストと考えないで頂きたい。
いちいち「制約条件を意識する人たち」とキーボードを打つのがめんどくさいから
そう呼んでおく、程度のことである。


修論進める上で、
「あっちが起てばこっちが起たず」
という状況を何度も何度も経験する上で、
リアリストでい続けるということがどんだけエネルギーの要ることなのかがうっすらと分かった。
それまではリアリストのことをちょっと小馬鹿にしていたところがあったんだけど。

そこから出る結論がどうとか、そういう話じゃなくて、
リアリスト的にものを考えるということそのものが、なんかすごいなあ、という感じ。
それはもちろん「俺とは明らかに方向性が違うわ」という意味も含まれているのだけれど。


ところで、
リアリストの最たるものはたぶん政治家だと思う。

昔は政治家のことをうさんくさいくらいにしか思ってなかったが、
最近は、あの人たちも環境、経済、社会、建設、流通、俺らが想像するより
はるかに多くの制約条件の中で答えを出そうと必死なんだろうと思う。
そのために恐らく膨大な量の勉強をしてきたはずだ。
そんな政治家ばかりではないのも知ってるけど。

それもやっぱり修論進める上で主に建築関係の法令とか会計法などに目を通した時に、
俺はそこで初めて法律というものの中で意識されている制約条件の数が半端ないことに気づいた
ことが大きいと思う。

そこで展開されている世界は、
一つの建築が建つということは天文学的数字に及ぶ(言いすぎ)制約を乗り越えた上で、
ようやく成立しているというものだった。

同時に「俺には手に負えん」とも思った。
そして俺は建設業界には進まず、より制約の少ない広告というジャンルを選んだ。

対して泰静はてっきり政策関係の道に進むのかと思いきや、
いきなり民間の不動産に行っちゃったりして、「あれれ」と思っていたのだが、
恐らくこの世の産業と呼ばれるものの中で最も制約条件が多い建設産業に足を踏み入れたことは、
意識的か無意識的か、やっぱり泰静らしいのである。


人の決断は、結局その人が出るのである。

うーんおもしろい。



逆に漫画家とかゲームクリエイターのような、虚像としての世界を構築する人たちは、
イデアリストだと思う。

例えば熱血野球漫画にいきなり宇宙人が出るのはおかしいなど、
そういう制約はもちろんあるのだが、「熱血野球漫画」という世界を自分で選択できるという点で
やはりイデアル的である。

しかし実に練られた漫画やゲームであればあるほど
自ら構築した世界の中でつじつまが合うようにしなければならず、
そういう意味ではリアリスト的な感覚も求められるはずだ。

つまりバランスなのである。

というか100%純粋なイデアリストは間違いなく犯罪者になっているはずだ。

政治家だって全員が100%純粋なリアリストだったら恐らく「決めごと」は不可能である。



どちらが強いはあるにしろ、俺らにはリアリスト的な部分とイデアリスト的な部分があるから、
社会の中で生きて行きながら、変化していけるのだと思う。