2008/01/04

Life

テクノロジーの発展・発達という現象に懐疑的であることには定評のあるいまさしさん。


便利になったのは間違いないが、
じゃあそれが幸せにつながるかという点でどうも腑に落ちない。

人生というスパンで見たときに大した価値観にならないような快楽が
安価にかつ手軽に手に入るようになり、
自分の人生を真剣に考えないままええ歳になった奴がニートなんぞになる。
そんなニートが大量発生する社会構図である。



1年前のいまさしさんはこんな問題を解決する画期的な方法を思いついた。


ノアの大洪水を起こして地球上からテクノロジーを一掃する。


「1万年前の地球が、今の地球より絶対に不幸だと言い切れますか?」
という考えに基づいている。

就活期に企業の行動さらには人類の行動に関して大いに疑問を持ち始めたいまさしは
もうこれしかない!!というくらい本気で考えておったそうな。

そんで西畠を捕まえては
「だから人類にはノアの大洪水が必要なんだってば」
みたいなことを延々と喋っていたそうな。


ただ最近ひとつ気付いたことがあって、それは
「じゃあ逆説的に1万年前の方が絶対に幸せであるとも言えないじゃねえか」
という単純なことになんだけれども。


この価値観にたどり着くまでに1年かかったことが自分でオドロキ!!である。


去年の2月に仙頭氏に指摘されて初めて気付かされたことなんだけれども、
俺はかなり思い込みが激しい人間みたいだ。

両親を見てると思い知らされるが、どうもDNA的にそうみたい。

一つの事象に対して一番最初に思い浮かんだ「ひょっとしてこれって、こういうことかも」
というアイデアに、最後まで縛られていることが実に多い。

「あれ、こういう考え方もできるやんけ」
という頭が途中でなかなか働かない。


思考の柔軟さみたいなのが完全に欠けているのである。


修論の失敗は恐らく9割方それで説明できる。
特に修論はマックス2年という限られた時間内で完成させる必要があり、
思考を効率的に進める上でも柔軟さは不可欠であったのだ。

それが欠けているもんだから全く的からかけ離れたアイデアで突っ走ってしまい、ゼミの度に
「お前なあ…」
と怒られるわけである。

俺の修論は内容的に全く確立されてない分野で、外部との研究会などが一切無いものだから、
2年間「完全に」独りで進めてきた。
頭の固い人間に対して、方向修正しくれる機会が少なかったのは
まさに泣きっ面にbeeとしか言いようがない。




物心ついた頃から「自分一人の頭で考える」という癖があって、
俺の頭が固いのはどうもそれの弊害じゃないかなと考えている。


特に、ちょうど2007年は「根拠ある自信」を求めて、
ひたすら興味を敢えて「自分だけ」に向けた一年だった。


それ以前は俺は興味を他人にばかり向けているような人間で、
このままだと自分か他人のどちらかを犠牲にするような人付き合いしかできないと感じたのがその理由である(事は2007年11月「期待の矛先」という記事に詳しい)。

最近になってある程度の自信もついてきたし、
この考え方の限界みたいなんもそろそろ見えてきたので
今年は「自分と他人の興味(≒期待と考えることができよう)の矛先バランス感覚」
これを鍛える1年にしようかと思う。

ちょうど社会人になることだし、タイミング的にはぴったりかもしれない。



他人と接する内にいろんな生きたアイデアを目の当たりにすることで、
思考の柔軟さが得られたらいいですなあ。




まぁ、
もし仮に大洪水でテクノロジーが一掃されたとして、
その後の世界が北斗の拳みたいになったら生き残れる自信はないし、
そもそもそんな大洪水は起こせないのである。

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