2013/05/29

フィクションを消費する意義

フィクションを消費する、という行為の意義がわりとはっきりした。
価値観の変化、だ。

半年くらい前か、素人がネットに書いた小説でいたく感動した。
1周で5時間くらいかかるボリュームなので、薄い文庫本くらいの内容があるのだと思う。
同小説を一言で言うとき、10人いれば10通りの表し方があると思うが、俺の場合それは「出産」と「家庭」だった。

で、自分の中で明確に「出産」と「家庭」に関する価値観が変わった。
変わったというか、この場合は「具体化」した、というか。理想像が具現化したというか。

俺がインプットしたのはフィクションだが、アウトプットとして価値観に何かしらの変化があった。
ようやくこれがフィクションを消費することの意義だと分かった。

多分俺が今まで「感動した」と言ったフィクションは、大なり小なり価値観に動きをもたらしたものだと言えると思う。
でないとフィクションは、それに触れている時間だけの快楽、となってしまう。あまりにもったいない。

どんな微細なことでもいい

自分が理想とする友情の形を見出したり
モテる男のヒントを得たり
生死観だったり

こういうことを考えた場合、自分の生活の中でそれと同等の意義を持つ行為がある。

他人との交わりである。

別にそれはただの飲み会であってもいいし、冗談を言い合うだけの関わりでもいい。

ただ、自分と違う価値観にしたがって笑ったり怒ったりする他者を見て、自分の知る価値観は広がりを見せる。



もしかしたら前者は具体化で、後者は広がりなのかもしれない。
どちらも変化である。


こういうことの積み重ねで、人生はもっとおもしろくなるのだと思う。
だから俺は歳をとる度に人生がおもしろくなるのだと思う。


そのうち本ブログでまとめる。

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