2008/06/23

喧嘩上等

俺はかなりぼんやり生きているとこもある一方で、
腑に落ちないところは何が何でも分かろうとしたり、
相手が間違っている(と俺が思った)ことを言いだそうもんなら
徹底的に話し込むところがある。

どうでもいいやと思うことはぼんやりで結構だが、
どうでもよくないことはできるだけ明確な形にしておきたい。

それは誰にとってもそれはあたりまえなのだろうが、
学生時代に出会った人に比べると俺のそういった傾向は
両軸に少々極端であるように思う。

学生の頃の例で言うと、
研究は正直M2になったあたりでどうでもよくなっていたので、ぼんやり進めていた。
一方音楽の話題になると(それは例えば「山野に出るとはどういうことか」から「ジャズ系の先輩と後輩の付き合いかたは」とかである)、俺の話は長くなった。
それらは当時の俺にとって一番大切なことだったのである。


会社という俺にとって生まれて初めての組織に入って、2か月半になった。

社会人としてこれは理想的な状態であると推測するが、
仕事が俺の一番大切なことになった。

同時に、俺は引き下がらなくなった。

先輩や同期問わず
「あそこははいはい言っといて流せばいいんだよ」とか
「お前がからむと話が長くなる」とか
「君は血の気が多いね」
とか言われたりしている。

ちょっとだけ、腹が立つ。
それが社会人の立ち回りとしてのうまさなのか。

だけどそう言われるのもしかたがないのだ。
うちの(現在の)仕事のやり方は、少ない時間でいかに仕事をまわすかが大事だからだ。

俺にも非がある。
俺は自分の正義を貫こうとしている。
しかし、貫こうとしすぎている。
熱くなると言葉が悪くなる。
会議中に40代のおっさんにずいぶん失礼なことを言ってしまった。

そして、俺は喋りすぎる。
うまい言葉が見つけられないからだ。
相手に俺の言葉を浸透させることもできない。
結果として議論が長くなる。

俺が無く子も黙る説得力を持てば、話は解決するのだ。


最近特に思う。
「ちょうどいい」具合のコミュニケーションが大事なのだ。


「ちょうどいい」具合のコミュニケーションができる人を、
俺は勝手に「本能的カシコ」と呼んでいる。

俺の中に、本能的カシコにい人っていうのははっきりした形で確かにいて、
それはすぐに思いつく範囲ではバンさん(シラフ時限定)やせんとー氏とかのことである。

俺は彼らとの何気ない会話の中でぽろっと出る珠玉の言葉遣いに遭遇した時に、勝手に感動していたりする。


はいはい言って流すことがうまい立ち回りだと思わない。
俺はそこに誇りを感じない。

本当にうまい立ち回りとは、
「ちょうどいい」コミュニケーションをとることではないのか。


バンさんが以前mixiに寄せた文章「続フルバン」というのがある。
俺も(同じ次元とは言わないが)全く同じこと考えていた。
同じことをこんなにスマートな伝え方があるのかとすっかり仰天した。
感動して何度も読んだ。

俺も、こんなものの伝え方ができる人間になりたいと思うのだった。

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