まぁ昔からその傾向はあるが、最近特に物事の理由を考えることに興味がある。
物事の結果の背景には100%の確率で何かしらの理由があるのではないか、とある意味言われてみれば当たり前なことに最近になって気づいたからである。
今年3月くらいにこんな事を考えた。
新日本人をやっているとき、山中に何でサックスをを始めたのかと聞いたことがある。彼は
「渡辺貞夫のライブをみて感動したからです」
とかそういうことを言った。
これは理由ではあるが、正確には理由のうちの50%である。
なぜなら、これが理由のすべてとして語られたとしたら、「渡辺貞夫のライブをみて感動した」人は全員が全員、必ずサックスをはじめることになってしまうからだ。
つまり理由の残り50%として、山中をして「渡辺貞夫のライブをみて感動した」という経験と「サックスを始める」というリアクションとを結びつけるような、彼だけが持つ理由が、別のどこかに横たわっているはずである。
さらになぜ山中はそのタイミングで渡辺貞夫のライブを見たか?という問いに対する理由だって、どこかにあるはずだ。
そこで発見された理由の理由は、さらに芋づる式に次の理由を生み出す。それは残りの50%、その残りの50%、その残りの50%…と続いていき、無限に100%に近付いていく。
結果総合して理由のうちの何%までを説明したらいいのかは、その会話や文章の文脈に依るのだろう。
さらにそれを一言で表現できるような言葉を、数多く持っていた方がいい。
上で行ってきたことは、日本語的に言えばおそらく「原因」と呼ぶほうが適切なものである。
あえてそれをこの場で「理由」と記している。
それは、自分の意思を伝えるために無意識化におかれている「原因」を、自分の表現手段として抽出し、最後には言語化する行為を前提にすることを意識しているからである。
つまり、「理由を説明できる」ことは、コミュニケーションの中で自分の意思を伝える際にとても便利だと思うのである。
その2に続く。
2008/09/22
理由 その1
時刻:
2:36
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